ごちうさというアニメ

みなさん、「ご注文はうさぎですか?」という作品をご存じでしょうか?
一時期ブームにもなりましたね。
『あ~^こころがぴょんぴょんする~』
などといったコメントも多く、映画も公開されたようです。

漫画タイムきららという雑誌で掲載されていて、ほんわかとしたいわゆる『日常系』に分類される作品のようです。
一人一人のキャラが多くのファンを持ち、今でも根強い人気を持っています。
僕は緑色の女の子が好きでした。f:id:mk1h:20191108175052j:plain

OPも中毒性が高いです。
僕もこのアニメを思い出してから何度も聞きました。
そして、このフレーズがとても頭に残っています。


『わたしがわたしを見つめてました』


このフレーズです。

有識者のみなさんは、「いや、コーヒーに写った自分のことやろw底辺中卒ガイジか?」と思われるかもしれません。
しかしこの曲の次の歌詞では、歌い手はなぜか「ふたりいる」と困惑し、きっと同じ趣味であるという憶測をたてています。
普通、コーヒーに映った自分を他人と認識することはあるのでしょうか?
しかも、映像でコーヒーカップは空の状態です。
ということは、ここで歌い手が見たのは「ドッペルゲンガーである可能性」が出てきました。

ドッペルゲンガーを見た人間は死ぬ、と通説では言われています。
ではどのように死んでしまうのでしょうか。また、それは本当に死と呼べるのでしょうか?

例えば、とある場所にAという少女がいます。
このAという少女が、見た目も思考回路も血液型も記憶も遺伝子も、全てが同じドッペルゲンガーaが誕生し、出会い、殺され、姿態も消えてしまうとします。
そして、aはAにすりかわり、日常を謳歌し、人生を送っていくとします。

それを客観的に見ている私達は、Aがaになったと気づくことはありませんし、Aがaになったからといって日常にはどのような変化も起こりません。
これはaがAを殺したという事実を知らなければ、『Aは生きている』ということにならないでしょうか?

例えば、名だたる人形師が自分と全く変わらない、要はドッペルゲンガーのような人形を作成し、自分の死後、記憶や感性を受け継ぎそれが新たな自分として動くように設定したとき、その人形師は死んでいるのでしょうか?

鋼の錬金術師』では、お母さんを生き返らせようとして失敗していましたが、あれが成功したとして、それはお母さんと呼べるものなのでしょうか?

私達が毎日、寝て、起きたとき、私達の意識は途切れています。私達の昨日は間違いなく私達の記憶でしょうか?

私達の存在は常に希薄で、確証性はありません。
次に意識が途切れた時、私達は別の私達へと変わってしまっているのかもしれません。

だからこそ、今この一日を大切に生きていこうと思いました。

今日は一日中YouTubeをみたりソシャゲをしていました。
あまりにすることがなくて毎日自分の排泄物の写真を撮ろうかと考えたくらいです。

明日は新しく決まったバイトにいってきます。